皆様、いかがお過ごしであろうか? 算数のみならず財布の中身の計算もできない野地である。
笑っている場合ではないのだが、今月はお金がない分遊んでいなかったので先月&先々月よりもやや早めにブログを更新できた。
今回でこのフェルマーの最終定理についての連載も最終回となる。是非、ここまで読んでくれた方は最後までこの数学ドラマを楽しんで欲しい。
またこの記事だけでなく、記事の最後に参考文献や動画、Webサイトも載せたのでそちらも楽しんで頂ければな、と思う。
目次
悲劇の天才
ワイルズが研究を始めて三年がたった。
三年という時間は一つのことを極めるのにはあまりにも長い時間だったが、このあたりでワイルズはようやく確実な第一歩を踏み出すことになる。
無限を相手取る証明の話は背理法の時にしたが、ワイルズはこのとき別のテクニックを問題に応用することを思いついた。
それが「ガロア群」と呼ばれる概念で、それを楕円曲線へと応用することで、無限に存在する楕円曲線をいくつかのグループへと分け、少なくともそれらが持つ最初の要素はモジュラー形式であることを証明したのである。
この概念の名前となっているエヴァリスト・ガロアは19世紀初期に活躍した数学者である。
ガロアは数学に初めて「群」という概念を持ち込み、具体的には「五次以上の方程式には解の公式が存在しない」ことを証明したことでも知られる。
ガロアによって発明された「群」の概念を用いれば、一つ一つが難解でしかも膨大な方程式が大量にあろうともそれらを何個かのグループにまとめ上げることが可能で、しかもそのグループごとにある判定条件を適用すればそのグループの中に含まれる方程式全てにおいての判定が済んでしまうという、凄まじい利便性を手に入れることができる。
しかし、そんなガロアの人生はそのような華々しいものとは対照的な、悲劇と激動に塗れたものであった。
当時のフランスでは教会や王政復古の流れもあって、保守的な勢力と自由主義の勢力が一触即発の雰囲気だったという。
ガロアが通っていた学校の校長は保守的な思想であったが、生徒には自由主義を掲げる者が多く、ガロアも勉学の傍ら政治色を強めていった。
元々勉強はできたガロアであったが、彼はある日、暇を見つけて出席することにした授業で出合った「数学」に夢中になる。
当時のフランスでは数学が重要視されておらず、学業においてもあくまで補助的なものであったことから、数学だけができても評価の対象とはならなかった。
そんな中で、その数学が持つ魅力の虜となったガロアは他の学問には一切目もくれず、数学の勉強と研究だけをするようになってしまう。
当然、教師たちからの評価も悪くなる一方で、更にガロア本人が入学を熱望していた当時フランス随一のエリート校である理工科学校への試験にも失敗してしまう。
反面、数学の分野ではその天才ぶりを開花させ、17歳という若さで素数次方程式の解き方についての論文を完成させることになる。
日本では二次方程式における解の公式を義務教育で習うので、この式に見覚えのある人は多いだろう。
方程式の種類は二次の次に三次(x^3等、三乗が含まれる式)、四次、五次と無限にあるが、16世紀までに四次方程式までの解の公式が発見されていた。
二次方程式の解の公式の暗記に苦しんだ人は多いと思うが、三次方程式のそれは二次方程式のそれとは比べものにならないほど複雑で、四次方程式は言葉通り、その三次方程式から更に次元違いの複雑さを見せる。
さて、2,3,4と来たら5と来るのが普通の感覚である。当時、多くの数学者が「五次方程式の解の公式はあるだろうが、途轍もなく複雑過ぎて発見に至っていない」と考えていた。
しかしガロアは先ほどの論文で「五次以上の方程式には解の公式が存在しない」ことを証明したのである。
ここで登場するのがワイルズが使ったガロア群という概念だ。これを使うことによって五次以上の方程式グループはある条件を満たさないことにより、先述した定理の証明をしたガロアはまさにこのとき、新たな数学の一分野を開拓した。現代数学や物理学においてガロア群の概念はなくてはならないものである。
しかし、時代はガロアに対してどこまでも冷たかった。
まず、彼は完成した論文を前々回にも登場したオーギュスタン=ルイ・コーシーに預け、フランス学士院に提出することを頼む。
コーシーは文句なしに優秀な数学者であったが、若い才能に対する目は必ずしも良くなかったと言われる人物で、なんとこの預かった論文を紛失してしまう(これには異説もあるが、一般的に有名なのは紛失説である)。
この出来事に怒りを感じるガロアだったが、そんな矢先に今度は彼の父が自殺してしまうという事件が発生する。
彼の父は詩を趣味とする町の町長であったが、自由主義者であったため保守的思想の強かった教会の人々が何かと反発していた。
そこで教会の司祭たちは卑猥な詩を作り、それをガロアの父が作ったものだと吹聴することで彼の評判を落とすという手段に出る。その事件がもとでガロアの父は気を病み、ついには自殺してしまったのだ。
父を敬愛していたガロアにとってこれはとても大きな心の傷となり、彼はより一層荒れた。
この頃にガロアはもう一度理工科学校の受験に挑んでいるが、再び失敗してしまった。伝説によれば、愚問ばかりを聞いてくる試験官に激怒して黒板消しを投げつけたという話が残っているが、当時の彼に降りかかった災難を考えれば通常のコンディションで試験が受けられなくても当然であろう。
そんなこともあり、ガロアはその学校を諦め、一つ格が落ちてしまうがそれでも有名な学校へと入学を果たす。
なんとか気を取り直したガロアはコーシーに紛失されてしまった論文を再度書き直し、今度は直接フランス学士院へと提出した。
だが、今度はフランス学士院でその論文を預かっていたジョゼフ・フーリエが急死するという事件が起こる。
またしても論文を紛失されたガロアは怒り狂い、自由主義の延長上である共和主義へと更に傾倒してくことになった。
この頃フランスではフランス7月革命が起こり、ガロアもその戦火への参加を試みるが、面倒ごとを起こしたくない校長に阻まれ、怒りを革命にぶつけることも失敗に終わる。対照的に武器を取り戦いへ身を投じることができたのは皮肉にも入学の叶わなかった理工科学校の生徒たちだったという。
エネルギーのぶつけどころを失ったガロアは校長に反発するようになり、最終的に校長を嘲笑する内容の構内新聞を発行した段階でガロアは退学処分となった。
才能があるのにあまりに不運な彼を見かねてフランス学士院のシメオン・ドニ・ポアソンは、再度ガロアに論文の提出を勧める。
ガロアは再び論文を書き上げフランス学士院に提出するが、彼は既に荒み切っていた。
彼は急進的な共和主義の秘密結社に加わり、三度の逮捕を経てついに禁固6ヶ月の有罪判決が確定してしまう。
獄中にて他の囚人から執拗ないじめを受け、どんどん生気を失っていくガロアだったが、ついにポアソンから論文の返事が返ってきた。
遂に自分の功績が評価される時がやってきたとガロアは期待しただろう。
しかし、実際に帰ってきた手紙の内容は、あまりに難解な論文のため、もっと分かり易く簡潔にまとめて欲しいとの要求だった。ガロアの理論は当時一流の数学者のレベルを超えたところにあり、理解されるには早すぎる代物だったのだ。
全てに失望したガロアは、コレラが流行したため仮出所したのだが、そこで失恋を経験したらしい。
そのいざこざがもとで、ガロアは二人の愛国者に決闘を申し込まれた。
ガロアはこの決闘を受け、逃げなかったのだが、相手は有名なピストルの名手で勝利の見込みがないのは彼本人も分かっていたらしい。
決闘を申し込まれ、その翌朝が時間だったため、彼は大急ぎで友への手紙と論文の添削、そのほか着想に至った数学のアイディアをしたためた。そこには荒い筆跡で「時間が無い」と書かれていたところからも、いかに彼が絶望的な心境だったかをうかがい知ることができる。
そして決闘の朝、彼は腹をピストルで撃ちぬかれ、敗北した。
普通は決闘に従者がついて、勝負が終わったとなれば負傷した人間を介抱し治療にあたるものなのだが、このとき従者は相手側にしかおらず、結局近所の農夫が偶然彼を発見するまで放置されている。
そして農夫に病院に担ぎ込まれた彼の元へ弟のアルフレッドが駆けつけるのだが涙ぐむ弟に彼はこう言った。「泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから」
これが最後の言葉となり、ガロアは亡くなった。
彼の業績が数学界で評価され始めるのはそれから20年程後のことである。
奇襲
ガロアが打ち立てた理論を使ってワイルズは着実に証明をこなしていった。
大学の方では必要最低限の仕事をこなし、それ以外はひたすら家にこもって研究を続けていたワイルズだが、既に見つけていた研究成果を小出しにする等の工夫のおかげでさほど怪しまれはしなかったようである。
しかし、そんなワイルズに突然、日本からとんでもないニュースが飛び込んできた。
「フェルマーの最終定理、日本の宮岡洋一によって証明される」
ニューヨーク・タイムスにも載ったというこの報せは、当時のワイルズが最も聴きたくなかったニュースの一つだろう。
そうでなくともワイルズの同僚であるゲルト=ファルティングスという人物も密かにフェルマーを狙っているという噂があり、おまけに彼はとても仕事が早かった。ワイルズは一人で地道な研究をする戦略を取ったために、世に出すスピードで敗北してしまうを恐れていたのは想像に難くない。
宮岡はその証明を微分積分学からのアプローチで証明したらしかった。
志村=谷村予想を証明すればフェルマーの最終定理も証明できるというのは周知の事実で、しかしそれは途方もなく難しい問題であることが、ワイルズにとって他に挑戦者を増やさない最大の利点だったはずなのだが、全く違う方向からの解決策を見つけられてはたまったものではない。
ワイルズにとっての何年間は無駄になってしまうのだろうか。しかし、一度発表されたものはもうどうしようもない。ワイルズは引き続き研究を続けることにした。
世間は350年にわたるフェルマーの歴史に幕か、とお祭り騒ぎだったという。審査員達に関しても、懐疑的に証明をチェックするのではなく、どちらかというと楽観的な、この手で一大イベントに関われるという雰囲気があったらしい。
しかし、フェルマーはまたしても空の上から不敵に笑うのだった。
当然、欠陥が見つかれば発表者や仲間の研究者は総当たりでその穴を埋めようとする。
宮岡の証明に致命的な欠陥が見つかったとき、彼は諦めずにその欠陥をどうにかしようと奮闘した。
しかしやがてその証明はどう直そうと、その道筋ではフェルマーに届かないことが明らかになってしまった。
ただ、それでも宮岡のした証明は無駄にはならなかった。宮岡の証明に使われた様々な手順によって、フェルマーを仕留めるところまではいかなかったものの、数々の有力な事実が得られたのだ。
中でも、「もし、フェルマーの最終定理に解が存在しても、それは有限個である」という事実は大きな収穫だった。
永遠に届かないとすら思われていたフェルマーの最終定理は、案外近くにいるのかもしれない。
そう考えなおした数学者は多かっただろうし、彼の研究によって新たに生まれた定理もあった。
ワイルズはほっとしたに違いないが、世間は再びフェルマーに注目しだしたのである。
岩澤理論とコリヴァギン=フラッハ法
宮岡の証明が失敗に終わってしまい、再び安心して証明に取り掛かるワイルズだったが、そこはフェルマーの最終定理。ワイルズほどの天才に加えそれまでの数学が積み重ねてきた定理を動員しても一筋縄ではいかない。
このあたりでワイルズは壁にぶつかった。
フェルマーの最終定理というモノを壁に例えるならば、それは一枚の壁ではなく何百もの絶壁というイメージを思い浮かべればおおむね正しいだろうが、その中でも特に立派な壁にワイルズは向かうこととなったのだ。
さて、壁を越える、という例えをもうちょっと引っ張ると、壁を越える方法は登るだけではなく避ける、壊す、引き返して迂回する、等沢山ある。地面に穴を掘って地下を通るのもアリだろう。
とりあえずフェルマーの最終定理というゴールにたどり着きたいワイルズは主に、先述した「岩澤理論」という方法で壁を越えていた。
しかし、このとき彼が遭遇した壁は岩澤理論では到底越えられそうなものではなかったのだ。
岩澤理論を「登る」、という方法に例えれば、まさにその壁は天に届く高さを持つ壁であり、ワイルズは他の突破法を選ばざるを得なかった。
しかし、その壁は壊すには頑丈すぎるし、迂回しようにも見渡す限りの幅を持っていて、穴も開いてなさそうだった。
ならば地面を掘って進む方法が必要だ。
運のいいことに、ワイルズが地面を掘る方法は身近なところにあった。
ある日ワイルズは師であるコーツから興味深い研究をしている学生の話を聞く。
マティアス・フラッハは当時まだ学生だったが、ヴィクター・コリヴァギンが楕円曲線論にオイラーシステムというものを導入した方法をさらに拡張するという研究を行っていた。
その研究内容がまさにワイルズの探していた地面を掘って進む方法だったのだ。
この時点でワイルズの研究は6年目に到達していたが、最大の壁を超えたのは彼も実感したのだろう。その後も大きな壁はあったものの、彼はとうとうフェルマーを攻略したかと思える段階まで証明を完成させつつあった。
授業という名の研究会
おそらく、既にフェルマーは手中にある。そう思えても油断はできなかった。
数学の証明をする場合は多少なりとも既存の定理を根拠にして組み立てていくものだが、ワイルズが7年間かけて築き上げた証明に使用されている定理は膨大で巨大だ。
中学校で習う証明で使う定理を子供の劇に使う小道具とするならば、ワイルズが使った道具はハリウッド級の大道具たちである。しかも、大道具だけではなく、カメラを回すのも、CGを作りこむのも、編集に至ってさえ彼ひとりの作業だ。
しかし役者は数学界の大スターであるフェルマーの最終定理なのだから、間違いは許されない。発表は当然、世界規模のものになるだろう。
発表したのに、自分では見つからなかった致命的なミスが見つかってしまうのは避けたかった。
「誰かのチェックを受けるとき来た」
ワイルズは決意した。
しかし、その研究はワイルズの人生そのものといっても過言ではない。実際に研究に捧げたのは7年間かもしれないが、彼がフェルマー攻略の基礎となる楕円曲線論や岩澤理論を習得するのにも長い年月がかかっているし、何よりフェルマーは子供の時からの夢なのだから。
そんな命に等しい研究を話せる人間の条件は二つ。
一つは、研究を共有する価値がある、つまりワイルズが特に不安と感じていたコリヴァギン=フラッハ法周辺の数論に精通している専門家であること。
もう一つは、研究を共有しても安全な、要するに口の堅い人物であることだ。
白羽の矢が立ったのは、同僚であるプリンストン大学の教授、ニック・カッツであった。
その日、カッツはワイルズに呼ばれ、大学にあるワイルズの研究室を訪ねた。
周囲の目から見れば特に大きな研究をしているようには見えないワイルズからの呼び出しなので、恐らくカッツは何の気構えも無しに部屋へ向かっただろう。
カッツを中に招き入れたワイルズは部屋の扉をそっと閉めてから、ぎりぎり聞こえる大きさで話し始めたという。
「フェルマーを証明できそうなんだ」
当然、カッツは度肝を抜かれた。
毎日顔を合わせていた同僚が、まさかフェルマーに挑んでいたとは。カッツを含め、大学の誰もがそんな気配を感じたことも噂を耳にしたことも無かった。
そしてワイルズはカッツに証明が間違っていないかどうか一緒に精査してくれないかと頼んだ。
カッツは快諾したが、二つほど問題があった。
一つはワイルズの証明があまりにも長く難解なものであったので、検証にはまとまった時間が必要であったこと。
もう一つが、大学の研究室で二人集まって研究をしていては周囲の好奇を引き寄せてしまうこと。
大学の仕事が終わってから、研究室で堂々と研究するわけにはいかなかった。
しかしやがて、二人は大胆な方法を考え付く。大学の授業として研究するのだ。
それからしばらくして、ワイルズは大学で授業を開いた。
その授業は楕円曲線論を中心にしたなにか、といったようなテーマで開催され、「フェルマー」という言葉は一言も見当たらなかった。目標がぼかされているのである。
しかもその内容は恐らく世界でも類を見ないほど難解なものであり、何のための授業なのかを知っていなければ誰もついていけないようなものだった。
やがて授業が開催されたはいいが、受講する生徒は一人、また一人と減っていき、とうとう最後の一人となってしまう。カッツだ。
こうして怪しい点があれば生徒であるカッツが質問、それに講師であるワイルズがそれに答えるという形で授業という名の研究が進んだ。
生徒間では到底理解できないマニアックな世界を教授同士で問答しているだけに見えただろう。ある意味それも正しいのだが、それが実はフェルマーへとかかる橋の最終点検だったことは、恐らく誰にも見当がつかなかったはずだ。
そして予定していた授業を終えた後、カッツはワイルズへOKサインを出した。
手塩にかけ、めでたく太鼓判を押されたワイルズの証明は、今度は世界へデビューするのを待つばかりとなったのだ。
通称、世紀の講演
ワイルズはもう少しばかり検証に時間をかけたかったらしいが、流石はフェルマーの最終定理、せっかちなのはワイルズ本人よりも舞台の方だった。
彼の母校であり故郷でもあるケンブリッジ大学にできたニュートン研究所というところで様々な数学者による講演が行われるイベントが開催されることになったのだ。
これこそ発表の場にふさわしいと感じたワイルズはさっそく準備にとりかかった。
彼の師であるコーツも発表の枠を持っていたが、彼はなにやらワイルズが大掛かりな発表をするのを察して彼にひとつ枠を譲ったという。ワイルズは元々持っていた二つの枠に加え、最後の枠にとびきりの仕掛けをもってくることにした。
イベントの二週間前にケンブリッジへやってきたワイルズは、彼の証明の一部分をコピーした紙を何部か用意していた。そこで会えるであろう、数々の数学者にチェックしてもらうためのものだった。たが、フェルマーの最終定理に繋がる証明であることは伏せて、である。
バリー・メイザーやケン・リベットなど、名だたる数学者たちがケンブリッジに集まり始めた。
イベントが始まる前の数日間の間に、ワイルズが密かに配った証明などを見て、何人かがワイルズに何を発表するのか尋ねたという。
しかしワイルズは笑みを浮かべて「是非、会場へ聴きに来てください」と言うだけであったという。
ほどなくしてイベントは始まった。
ワイルズの講演につけられた題は「モジュラー形式・楕円曲線・ガロア表現」という一見地味なものだったという。
彼の講演は三日間連続しておこなわれるモノだったが、一日目は講演としては普通の人数が聴講した。
しかし、彼の講義が始まる前から、噂は流れていたのだ。「アンドリュー・ワイルズはフェルマーの最終定理を証明したのかもしれない」
講演の内容は高度で難しいものだったが、二日目の時点でその講義の方角がフェルマーを向いているのに気付いたものは少なくなかった。
二日目の時点で聴衆は増えてきていたが、最終日彼の講義室は満員で、席にあぶれた聴衆は廊下の窓から部屋を覗き込んでいたという。
間違いない、フェルマーの最終定理が、今ここで証明される。
その世紀の瞬間に立ち会おうと、その講義のレベルについていける・いけないにかかわらず会場の人間は増えていった。
所長にいたっては、来るべきその瞬間のため、教卓の下にシャンパンを隠していた。
そしてとうとう、全員が待ち望んだ一言をワイルズが口にする。
彼は黒板の最後にフェルマーの最終定理を書き、締めの言葉を放った。
「これで終わりにしたいと思います」
その瞬間フラッシュが焚かれ、やまない拍手が部屋中に鳴り響いた。
全員が夢見心地、まさに歴史の一ページに切り取るにふさわしい瞬間。
全員が笑っていた。
当然である。世紀の瞬間の生き証人になれたのだから。
しかし、空の上でも笑っている男がいた。
宮岡洋一の時のような、不敵な笑いだった。
悪夢の一年間
世界中の新聞が取り立て、世間は大騒ぎだった。
ワイルズのもとへ数々の数学者・マスメディア・一般人が褒めたたえに訪れ、紳士服の企業からコマーシャルの出演依頼まで来た。
しかし、発表しただけではまだ数学の定理として完成されたわけではない。厳しいチェックの上で、間違いないと認定された証明だけが数学の定理として認められるのだ。
ワイルズは審査員との問答へと取り掛からねければならなかった。
通常、数学の証明はレフェリーと呼ばれる審査員が一人、多くとも二人がつくが、ワイルズの証明はその巨大さと難解さのため実に六人ものレフェリーがついた。
彼らはそれぞれの分野のプロだが、彼らとて証明を読んでも疑問に思うところは多々あったようで、日夜ワイルズへ電子メールやファックスなどで質問をし、それにワイルズが答える日々が続く。
そして、悪夢は起きた。
皮肉にも、その間違いに気づいたのはかつて太鼓判を押してくれたカッツであった。より深く精査した部分で、欠陥が発見されたのだ。
カッツは決してかつての検証で手を抜いていたわけではない。そのミスは、世界に公表し世間の目を避けなくてもじっくりと検証できる環境でなければ発見できないほど深い部分にあったのだ。
カッツには気づかないフリをする選択肢もあったかもしれない。しかし、証明が正しいとされた後、誰かが穴を発見したときに一番苦しむのはワイルズ本人なのだ。
カッツはこのことをワイルズに連絡する。
この問題が明らかになる前にもちょっとした間違いはいくつか発見されていたようだったが、ワイルズはそれらに対して問題なく微調整をし、上手く問題を回避していた。
ワイルズもこの時点では些細な間違いだろうと、彼なりに修正したものをカッツへと送った。しかし、それはカッツにとっては満足のいく答えではなく、その修正では不十分な理由をワイルズへ提示し直す。
しばらくのやりとりの内に、立ち込める暗雲の存在にワイルズも気づき始めた。この欠陥が致命的なものであることが、だんだんと明らかになったのである。
しかし、フェルマーの最終定理が証明されたことにより世間は沸いていたため、このことは一般には伏せられた。
一刻も早くこの欠陥を埋めたいワイルズであったが、修正をすると他のどこかが崩れてしまう。全てが上手くいく修正方法は、なかなか見つかりそうもない。
やがて、世間はいつまでたっても発表されない論文に疑念を抱き始めた。
何故、審査の結果にこんな時間がかかっているのだ。
我々の疑問に答えないのは何故か。
もしかして、証明に致命的な欠陥があったのでは――
お互い、レフェリーとワイルズ以外には欠陥があることは秘密だったため彼らは苦しい毎日を過ごすことになる。
特に、ワイルズ本人はプレッシャーはもちろん、周囲の視線に苦しんだことだろう。
彼は欠陥を埋めるために再び自宅へ引きこもり研究を始めたのだが、以前は誰にも知られていなかったのが、世界中の視線にさらされながらの研究になってしまったからである。
同僚の数学者や記者、散歩中に挨拶してくる一般人に至るまで、彼を苦しめようとしてはいないものの、皆が研究の進捗を訪ねてくるのだ。
それでもワイルズは修正作業を続けた。これまでの7年間を絶対に無駄にはさせない。
しかし、その必死の修正作業も一年が経とうとしていた。
もっとも大切な瞬間
修正作業が一年を越す前の月、流石のワイルズも敗北宣言を考え始めた。
ワイルズの論文は全六章で構成されており、今回問題が発見されたのは第三章、特にコリヴァギン=フラッハ法を扱った部分だったのだが、それ以外の五章分は文句なしに素晴らしい仕事だった。たとえ三章がダメになったとしても、他の部分が今後の数論界にもたらす恩恵は計り知れなかっただろう。
7年間考え続けていた自分の命とも言うべき論文を未完成のまま公開してしまうのは残念なことだが、それによって他人がフェルマーを攻略する可能性を潰してしまうのも惜しいことではあった。
自分がダメなら、後に託す。ワイルズはいよいよ覚悟を決めようとしていたのだ。
しかし、ここでそんなワイルズを止める者がいた。まだ一ヶ月、あと一ヶ月だけ頑張ってみましょう、と。
修正作業を始めて間もなく、ワイルズは周囲の強い薦めによって一人の助っ人を頼んでいた。今回ワイルズについたレフェリーの一人であり、ワイルズがかつて教えた数学者のリチャード・テイラーである。
助っ人に選ばれたテイラーは優秀すぎるほどの数学者であるのだが、彼が助っ人に選ばれた理由はなにより、仮に問題が解決しようとも彼はその手柄を主張する気が無いところだった。
ワイルズは彼にとっての偉大な師であり、レフェリーとして何としても証明を完成させてほしい共同作業者だったのだ。
彼ももちろん大学の教授職であるため助っ人ができる期間に限りがあり、10月までには大学に戻らなくてはならなかったのだが、ワイルズが敗北宣言を出そうとした8月に、あと一ヶ月だけ、9月まで一緒に研究をしましょうとワイルズを励ましたのである。
持つべきは良い弟子とはまさにこのことで、ワイルズは一度は折れかけた夢をもう少しばかり追い求めることにした。
しかし、その9月も二人の奮闘虚しく、半分が過ぎてしまった。
この頃になってワイルズは、新たな道を模索するのをやめ、なぜコリヴァギン=フラッハ法が上手くいかなかったかを考え始めていた。
コリヴァギン=フラッハ法がダメだとすれば何故なのか、その理由を定式化させ、せめて自分を納得させようとしていたのである。
9月19日の朝、ワイルズはいつもの作業机に座ってもう何年間も立ち向かってきた失敗を眺めていた。
そのとき、本人いわく、本当に突然。
かつて捨てた岩澤理論が、コリヴァギン=フラッハ法の欠けている部分にピタっと嵌ることに気が付いた。
かつて岩澤理論はワイルズの期待には応えてくれなかった。そして出会ったコリヴァギン=フラッハ法も、彼に栄光を掴ませたと見せかけて、わずかな穴が存在した。
しかしその二つは、お互いの欠けている部分をお互いが補ってこそ、完璧な理論だったのである。
ワイルズはこの瞬間のことを永遠に忘れないであろう、人生で最も大事な瞬間だったと語っている。
本当にこれは夢ではないのだろうか、この閃きは自分の手中にあるものなのかと、彼はしばらくそこらじゅうを歩き回ったという。
そして作業机に戻ってきたときにも、ちゃんとその閃きはそこに書き留められていた。
そして確認すること数時間、満足したワイルズは一階に降りて妻へ言った。
「やったよ、ついに証明できたんだ」
こうして、一年以上の格闘の末、新しい論文が二つ発表された。
一つは、ワイルズによる新・フェルマーの最終定理の証明。
そしてもう一つはワイルズとテイラーの共著による、コリヴァギン=フラッハ法と岩沢理論についての論文である。
再度審査にかけられた論文は、今度こそ完璧だと評価された。
フェルマーがこの問題を提起してから、実に350年の月日が流れていた。
350年のエピローグ
ワイルズは晴れて、フェルマーの最終定理を証明した人物となった。
今日ではフェルマーの最終定理はフェルマー・ワイルズの定理という名前でも呼ばれている。今でこそフェルマーの最終定理と呼ばれているこの問題は、ワイルズが証明するまで正しくは「フェルマー予想」だったのだ。
しかし、数論の専門家たちにとっては、フェルマーの最終定理が証明されたことよりも、谷山=志村予想が完璧に証明されたことの方が価値あることだった。
前章にも書いた通り、近代の分野によって細分化されていた数学界は、それらを内包する大統一理論の存在に注目し始めた。実は全くの他分野に分類されるそれぞれの理論が実はより大きな理論で繋がっているという夢を、数学界は見始めているのである。
そして楕円曲線論とモジュラー形式という二つの分野が史上初めて、夢ではなく現実の理論によって繋がったのだ。
この架けられた橋によってワイルズはフェルマーの最終定理という宝を手に入れたわけだが、この橋によって手が届く宝はまだまだ眠っていそうだった。
そしてその宝がまた新たな橋を架けるための礎になるのは間違いないだろう。
その橋となった谷山=志村予想改め、谷山=志村定理を生み出した志村五郎はワイルズの証明を知って一番にこう思ったという。
「だから、言ったでしょう」
ワイルズによって、志村と谷山の夢も、現実のものとなったのである。
ワイルズは後に、フィールズ特別賞を受賞した。
数学界のノーベル賞と言われる賞の片方であるフィールズ賞には40歳という年齢制限があり、当時42歳であったワイルズは受賞資格を持っていなかったのだが、そのあまりに素晴らしい業績に対して異例の特別賞が贈られたのだ。
そしてこの2016年、ワイルズへもう片方の数学界版ノーベル賞と言えるアーベル賞の受賞が決まった。
ワイルズはフェルマーの最終定理について後にこう語っている。
フェルマーの最終定理は子供のころからの夢でした。
今後、別の問題に関わることもあるでしょうが、自分にとってこの問題ほど大切で大きいものに出合うことはないでしょう。
子供のときの夢を大人になっても追うことができたのはめったにない幸運だということは分かっています。
しかし、人は誰しも、自分にとって大きい何かに本気で取り組むことができれば、想像を絶する収穫を手にすることができるのではないでしょうか。
この問題を解いてしまって、大きな喪失感を抱いているのは事実ですが、同時に大きな達成感も味わっています。
8年という長い旅もこれで終わりました。
今は穏やかな気持ちです。
まとめ
三章にわたって連載したフェルマーの最終定理物語、いかがだっただろうか。
もともと理系と言えど在学中はほとんど数学に興味はなかった自分だが、初めてこの物語に出合った時は感動したものだ。
数学という枠を飛び越え、創作小説顔負けのドラマが生まれようとはフェルマー自身予想しただろうか。
事実は小説より奇なり、という言葉があるが、数学という現実世界の真理に根付いたモノを軸に繰り広げられたこの物語はまさしく現実という基盤でしか成しえないドラマだったと言えるだろう。
ワイルズはこの記事を書いている2016年にアーベル賞の受賞が決まったが、実はフェルマーの最終定理においてさらなる進展があるかもしれないことが最近騒がれているのをご存知だろうか。
この予想がもし正しいと仮定されればワイルズの行った証明よりはるかにシンプルな証明が可能らしいのだが、望月氏が公表した論文はあまりにも高度(資料によっては「望月氏以外、理解できる数学者が存在しない」とまで書いてある)なため、現在長い検証の真っ最中である。
数学の世界はそれこそ無限の問題が転がっている終わりなき学問だ。350年間数学者を苦しませたフェルマーの最終定理をいとも簡単に解ける理論が発見される日もいずれ来るのだろう。
特に、最近では数学分野でもコンピューターの進出が目覚ましく、実際、名前を聞いたことも多いであろう四色問題等もコンピューターの力によって証明された問題だ。フェルマーの最終定理のような、人類が全力で奮闘する問題はもうお目にかかれないのかもしれない。
しかし、時代が変わってもワイルズの仕事は永遠に残り続けるだろう。
人類が滅んだら、人類が明らかにしてきた「数学の真理」は消えてしまうが、それが人類でなくとも、語り部のいる内はその業績は残り続ける。
難問に紙とペンで挑んできた人類の数学史の中で最も輝かしい業績として、ワイルズだけではない、フェルマーに至るまでの350年間に活躍した数学者達を称えつつ、この連載を終えたいと思う。
ここまで読んでくれて感謝!
参考文献・動画・Webページ
フェルマーの最終定理(サイモン・シン著、新潮文庫)
フェルマーの最終定理 Wikipedia
哲学的な何か、あと科学とか
フェルマーの最終定理が超絶おもしろい! – ノマド旅
「谷山=志村予想⇒フェルマーの最終定理」の流れ(未完成)
【数学者の伝説シリーズ】アンドリュー・ワイルズ 1/3
解けた!フェルマーの最終定理 数学にかけた人々 Part1
谷山・志村予想について : MATHEMATICS.PDF
フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~
ガロアの生涯